山梨県郡内地方きっての由緒ある古いお寺で、奈良時代(西暦719年)、行基が創建したと伝えられています。西念寺と富士山信仰との関係は深く、江戸時代、富士講の人達は西念寺精進場で身を清めた後、富士に登拝したといわれています。

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西念寺由緒
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西念寺は寺記によれば、奈良時代の養老三年(西暦719年)その時代における名僧行基が現在の富士山二合目付近錫原の地に庵を結んだことに起こります。
行基みずからが富士山頂に現れた阿弥陀三尊を三寸八分の像に彫刻し、それを本尊とし富士道場大蓮院と名付けたとされております。
その後古吉田の地に移転しました。

時は鎌倉時代に移り永仁六年(1298年)遊行二祖他阿真教上人が時宗宗祖一遍上人の深旨を引き継ぎ諸国遊行の砌、甲州から相模へと赴く途中、西念寺に留錫して念仏の法門を説かれたところ道俗の信者相競って集い、遂に旧宗を改めて時宗の道場とされました。
よって遊行二祖真教上人を開基上人とし、その弟子の真海和尚が法席を継いで開山上人となりました。同じ時代の永仁年間、武田氏の一族である一条右衛門大夫吉積という士が自らの本願として諸堂伽藍を造営寄進し、因って寺号を吉積山西念寺と改称いたしました。
元亀三年、富士山の雪代(雪解け水の災害)を避けるため一村を挙げて民家とともに現在の地に移転いたしました。

開創の由来からも見られるように、西念寺と富士山信仰との関係は深く、江戸時代、富士講の人達は西念寺が定めた「西念寺精進場」で身を清めた後、富士に登拝したといわれています。

境内

春登上人(しゅんとうしょうにん)
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本堂へ向って右側の横手、歴代住職の墓所のなかに、有名な国学者であり歌学者である、西念寺27代春登上人の墓碑がある。

春登上人は安永2年、甲府勤番支配山口直郷の子として甲府城下に生まれ、事情あって7才の時、当山26代春丈和尚について出家した。22才で西念寺27代を継席した。32才にして江戸に遊学、間もなく抜てきされて、時宗学寮京都七条道場の学寮主に、あるいは総本山の役寮等を歴任、さらにまた武蔵関戸延命寺、京都二条聞名寺に歴住す。

晩年は再び吉田に帰住し、天保7年64才で示寂するまで、世間の名聞利欲から遠く離れて幽居(*1)し花水庵と号して専ら著述に専念した。

上人は万葉学者であり、また歌人でもあったが一面宗学はもとより一般仏教々学にも精通し、広い意味でまことに偉大な学者でもあった、その著作には万葉字格、五十音摘要、万葉集名物考、仮字音便提要等々、刊行、未刊行合せて著述の数は21種に上る。
(*1)(ゆうきょ)俗世間を避けてもの静かな所にひきこもって暮らすこと


時宗の開祖 一遍上人(いっぺんしょうにん)
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時宗の開祖一編上人は延応元年(1239年)四国伊予(愛媛県)の豪族河野通広の次男として生まれ、10才で仏門にはいられました。上人が36才の時、紀州の熊野権現(*9)に百日間参籠(*10)され、そこで「一切衆生の往生はただ南無阿弥陀仏によって決定する」とのお悟りを開かれ、また権現の神託を得て「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれた念仏のお符を、上人自らの手でたれ彼の区別なく配り、日本全国1人でも多くの人々へ念仏をすすめて歩かれました。

又日本各地の霊場霊社にお詣りされながら、お寺を建立するということもなく、生涯を旅とし、そして旅に亡くなられた方であります。
(*9)(くまのごんげん)熊野三山に祀られる神
(*10)(さんろう)祈願のため、神社や寺院などに、ある期間こもること


西念寺薬師
【木造釈迦如来立像】昭和39年11月19日山梨県指定文化財指定薬師堂の画像
(*1)(せいりょうじしきしゃかにょらいぞう)清凉寺の釈迦如来像の形式を模した仏像

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本堂
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本堂内陣

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本尊阿弥陀如来

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西念寺を守護した歴代将軍家位牌


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十一面観音像 ※頭部の観音様は残念ながら紛失いたしております。

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閻魔大王像

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一遍上人像

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西念寺境内図(江戸時代)